学仏大悲心

南無阿弥陀仏 唯信仏語 唯順祖教
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佐々木鉄城和上 『真宗安心の解説』p43~46 より

聞で受け取る

すでに成就された名号は手にうけとる品物でもなければ、また観じてうけとる物柄でもなくして、声にして渡そうと成就されておりますから、私どもの救いの全分はきいてうけとるのだ、こういうことになって参ります。そこで真宗では「聞く」ということが非常に重要な問題になって参ります。名号を受けとる方法は名号が声だから、「聞」でうけとるのだ。そのうけとる聞はどううけとるのか。向うのもののまんまをうけとるのである。その向うのままということは、名号のままである。名号のままをうけとる、その名号が衆生往生させずばおかぬというお力だから、その衆生往生させずばおかぬというお力のまんまをうけとったものならば、聞くところに往生は一定おん助け治定と大安心ができるのである。聞いて安心のできないような聞き方ならば、如実に聞いてはおらぬのである。向こうのままをきいてはおらぬのである。たとえば今時計が鳴ったが聞いたか。聞きました。それじゃ何時じゃな。さあ四時だろうか五時だろうか。四時か五時か分からぬような時計が何処にあるか。時計は必ず今四時だ。今五時だと時間を確実に知らせるのが時計の音である。故に時計をみなくても、誰にでも音で今四時ぞ。今五時ぞと知らせようとして鳴る音、これが時計の音である。今四時ぞ、今五時ぞと知らせてくれた、その知らせてくれた音をききながら、四時だったか、五時だったかと確定できぬような聞き方ならば、聞かそうとする向こうの事柄が受け取られてはいないのである。だから聞いたとは言えない。いまいうところの第十八願の「聞其名号」という「聞」も、その名号を聞くのであって、第十七願の諸仏が「衆生は救われるに間違いないぞ」。とそう云ったことを讃歎されている。それをきかせてもろうたのであるならば、きくままに「往生は一定おん助けは治定」と大決心ができてくる。聞いて、それからそれを信じていくのであるなら、きく以外に私が信をつくっていかねばならぬが、今はそうではなくして、「きく」そのままが信心であり安心である。そこから「聞即信」という義もできて参ります。
また同行が「きいているが信心が頂かれぬ。安心ができませんが如何なものでしょうか」とよく質問されます。「救わにゃおかぬの名号の声」がきかれたのであるなら、「助からにゃおられん」となるべきなのに聞いておって未だ信心がえられぬ。聞いていて未だ安心ができないというのは何故かというと、それは聴聞が間違っている。きき方がまちがっている。不具足の聞、不如実の聞だからです。安心ができません。信ぜられませんというお同行があったら、よくききなさいと聞くことをすすめていくのが御当流の教化であります。それがどうかすると、進ぜられないという人に、こうなったのが信心じゃ、ああなったのが安心であると、信心のもよう安心のもようを言うて聞かす人がいる。そこでお同行は聞くことはほっといて、こうなったのが信心なんだ、こうなったのが安心だと自分の心の中に、信心安心の概念をえがいておいて、そうしてそういう安心にもうなれたか。そういう信心にもうなれたかと、未だ頂かれてもおらぬさきに、頂いた気持の輪郭をこしらえて、その輪郭の中に聴聞したことを詰めこんで、とうとう仰せの通りの信心ができた、教えて下さった通りの安心ができたのだと、そういうように狂うている同行が多いのです。
そういう場合に会われたときは、聞即信の論題にすわって、「ききなさい」ききなさいとこうすすめていく。同行がきいておりますと申しましても、それはまだきいてはいない。ききそこのうている。不如実の聞であるからダメである。もう一度ききなさいとすすめていきます。真宗は聞をすすめる宗教なのであります。それを安心、信心をすすめるものだから、やりそこないが起ってくる。安心をすすめて悪いというのではないが、こうなったのが信心じゃ。ああなったのが安心じゃと、聞えたのが信心であり安心であるものを、聞くほかに信心、安心を教えるから、同行は名号のおいわれきくことをほっておいて、云われた通りの安心、信心の概念通りになろうなろうと致します。

聞思のこころ

つぎは釈名、聞とは、総序の文に「聞思して遅慮すること莫れ」と仰せられてあります。聞思と云う心持は、ただ簡単に耳のさきにとどめるのでなくて、名号の謂れをきいてその謂れの通りを、心の中に領得する、これが「聞」の意味じゃぞよということで、「聞」の意味をもう一つ深めて思の字を加え「聞思」と仰せられてある。そこで聞思とは「聞いた通り思えよ」という御化導である。なるほど聞いた通り思えよ。きくと思うとは別ではない。聞くということが心に思うこと。心に思うてくることが聞くことじゃ。名号のいわれを聞いて、そのいわれを我が心のなかに深く領得することを、聞といったのです。「信」とは信楽のことである。疑蓋雑わることのないのが信楽なのである。さればこの聞くということが、疑蓋無雑の信楽のことであると云う法義上の関係を論ずるのが聞信義相です。
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[ 2013/07/22 04:28 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

法雷



「法雷」誌の定期購読を始めました(*´ω`*)

30頁そこそこの小冊子ですが、内容は有り難い法語が満載です(*´∀`)ノ゜.:。+
送料込みで年2200円というお手頃さも嬉しいです。
日々、ゆっくり味読したいと思います。
[ 2012/11/29 01:29 ] 未分類 | TB(0) | CM(1)

以名摂物録

以名摂物録
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943963

国立国会図書館デジタルアーカイブに、松沢祐然師という方の『以名摂物録』という本があります。
大江淳誠和上が、『教行信証講義録』で「良い本だからぜひ読んだらいい」と薦めておられた本です。
戦前に出版された、いわゆる説教本ですが、ひと味違う深みがあります。数ページ読んで「これは!」と思いました。
ぜひご一読をおすすめいたします。


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[ 2012/11/15 05:53 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

阿弥陀仏とは

早島鏡正先生の『正信偈をよむ』(NHK出版)を再読中…
週末から目を病んでいて読書したり文字を打つのが大変ですが、ぜひ紹介したい一文があったので、紹介します。

お釈迦さまの精神を回復するために大乗仏教の人たちは、正法の働きあるいは真実の働きを説いた新しい経典を編集いたしました。そのとき、私どもの模範と仰ぐ仏さまつまりお釈迦さまの求道者としての生涯をふまえて、もう少し新しい特色を加えた仏さまを自分たちの仰ぐ仏さまとして信仰してきました。
例えば、阿弥陀仏信仰の人々にとって、真実の世界から真実のすがた形をあらわしたのが阿弥陀さまという仏さまで、その仏さまは慈悲と智慧のかたまりであって、そのことは真実そのものの働きに他ならない。真実は慈悲と智慧の働きを示す。言い換えると、私をして真実のもの、真実の自己たらしめる働きが慈悲と智慧の働きとなって私に及んでいる。そういう働きを阿弥陀仏と名付けて、阿弥陀仏を讃える経典が編集されていきました。もとをたどると、お釈迦さまのいう真実の世界にともに生きる人になりましょうということです。それをもっとわかりやすく大乗仏教の人々は、阿弥陀仏という仏をたてることによって明らかにしようとしたのです。(P38~39)

全く同感です。
浄土仏教に対し、単なる偶像崇拝であるかのように偏見を持っている人も少なくないですが、そうではない事を知ってほしいと思う。


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[ 2012/02/27 20:04 ] 未分類 | TB(1) | CM(1)

武邑尚邦和上の著作


武邑尚邦和上の著作『仏教における思惟と実践』
Amazonにて\1にて購入しましたΣ(°Д°)

いずれ読み進めてみたいと思います。

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[ 2011/12/30 15:13 ] 未分類 | TB(1) | CM(0)


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