「「信をとれ」とあるのを聞いて、如来のまちがいないおこころを私の胸に受けとらねばならないように思うから、いただけたとか、いただけないとかと自分の胸をさがすのである。これは大きなまちがいである。それならば本当のことはどうかといえば、如来のやるせないおこころにおさめとられた一つで、往生の用済みであるということを聞かせていただくばかりである。
…それゆえどこまでも私の救いは、聞いておいてよかったというようなものではない。いまのままで助けられてしまうのである。」
「自分の努力をつみかさねた結果が信心となるというのではなく、仰せが聞こえたのが信心です。これが仰せに随順したことですが、その随順するということは無疑ということで、計らいの無くなったことです。仏智満入すれば、仰せのままにおまかせし、如来に計らわれてゆくのです。だから仰せの聞こえたのが信心であり、お助けの得られたすがたが信心決定のすがたであります。他力の信心は、仏智満入によって、成就されたお助けの聞こえたことであります。」
『真宗の信心』 加茂仰順和上 著 探究社 刊 より
にほんブログ村
スポンサーサイト
なまんだぶ…