学仏大悲心

南無阿弥陀仏 唯信仏語 唯順祖教
学仏大悲心 TOP  >  2011年01月

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最近思うこと

大谷派には『教行信証講義』(山辺赤沼、法蔵館)という、戦前からの定番ともいうべき御本典の解説書があるけど、本願寺派にはそれに相当する定番の解説書が、いま現在、ありそうでないよね…
あえて言うなら高木昭良和上の『教行信証の意訳と解説』くらい?

是山和上の『本典研鑽集記』や大江和上の『教行信証講義録』はいま絶版だし…(再版して欲しい。なんで放置プレイなんだろ?)

二十年くらい前に出た、龍大の星野先生の解説書もすでに絶版で手に入りにくいし…(まだ読んだことない)

御本典の全文にわたっての詳細な解説ではなく、概説としては、梯実円和上の『聖典セミナー 教行信証』(現在、信巻まで)や、村上速水和上『教行信証を学ぶ-親鸞教義の基本構造-』は本当にいい本ですが。
聖典セミナー 教行信証 信の巻聖典セミナー 教行信証 信の巻
(2008/05)
梯 實圓

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[ 2011/01/29 20:54 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

おぼえがき 真宗の行と信

村上速水和上『教行信証を学ぶ』より


行とは古来「造作進趣」の意味とされ、…今、真宗においては、我々の行為ではなく、我々を転迷開悟せしめる仏の力をいうのである。さらにそれを具体的にいえば、南無阿弥陀仏の名号

第十七願の成就した果号という意味からいえば、諸仏の讃嘆となって衆生に呼びかけつつあるものという意味になり、第十八願の成就した果号という意味からいえば、衆生をして三心十念せしめつつある名号という意味になる

如実・不如実の区別は名号の意義に契うか否かによることであり、実の実たる所以は法体の名号にある
(第三章)

信とは法が人間に受け取られた相をあらわす語であり、法を仰ぐ心ぶりをいうのである。法が人間に受け取られた相を、本願についていえば三心十念であるが、その中で正しく頂きぶりをあらわすものは信であって、称名は頂いた法がのちに口業にあらわれた相である

第十八願の信というのは、法体の名号が来って我々の心の中に満入したところの心ぶりである
(第四章)

教行信証を学ぶ―親鸞教義の基本構造教行信証を学ぶ―親鸞教義の基本構造
(1996/09)
村上 速水

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[ 2011/01/27 18:45 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

うんにゃ?

「『念仏から信心へ』という実践的称名念仏の意義」 だってぇ???

真宗における実践とは、いかなる形であろうとも御恩報謝以外にありません。
起行とは信後相続の所談です。
信心ゲットのためのお称名などありませんし、ありえません。

17、18願成就して衆生に呼びかけ、三信十念せしめつつある名号願力を、たった今、そのままいただく以外に何もないのにね・・・

御開山がなぜ誡疑讃に、あれほど口を酸っぱくして二十願の行信を誡められたか。

このようなことを言っている人とその追随者は、親鸞聖人の教えられた信心ということを、全くわかっていない人達でありましょう。
智者に笑われ愚者を惑わすとは、こういう人達のことでしょうね。

南無阿弥陀仏

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[ 2011/01/25 18:38 ] 未分類 | TB(0) | CM(3)

報恩講

去る一月十六日は、岐阜県関市の「正覚寺」さんにて報恩講にお参りしてまいりました。
御講師は以前の記事でも紹介した、本派司教の紅楳先生でした。

宗祖のご生涯を通して、他力のすくいを明らかにされたのが親鸞聖人である・・・とお話くださいました。

大雪の中でしたが、ありがたいご縁でした。

南無阿弥陀仏
[ 2011/01/25 18:14 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)


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