学仏大悲心

南無阿弥陀仏 唯信仏語 唯順祖教
学仏大悲心 TOP  >  2011年05月

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自力のはからい

今回も、稲城和上『蓮如上人のことば』(法蔵館)からです。


聴聞する場合、はじめから如実に聞くことは稀であろう。必ず聞き損うものである。この聞き損ないの機を二十願の立場という。……如実の聞と不如実の聞によって十八願と二十願とに分かれるのである。しかれば聞き損ないは何処に存するのであろうか。二十願の立場は行信各別といわれる。行である名号、念仏を彼方におく。それゆえ自らの造作を是認せざるを得ないことになる。信仰の対象として彼方におく。それゆえ、自らの聞くことや信ずることがすべて役立つのである。
 十八願の立場は、名号法は自らの求めに先行して既に与えられていることを前提とする。いつでも、どこでも、だれにでもすでに与えられているのが名号六字の法である。それを聞くので自らの造作は全く介入する余地は存しない。ここに聞即信といわれ、聞信の一念に即得往生の益を得る平生業成の義が成立するのである。それゆえ、自らの聞き間違いを明らかに聞き分けることである。自らの造作を加える必要がないから、誰でもいつでもどこでも通ずるのである。 しかるに最も妨害するのは自力のはからい、自力心である。熱心に聞く人ほど自力心が強くはたらくものである。それはすべて救いの法を彼におきかえ、自らの聞くことが先行することである。妙好人にはプラスになる面とマイナスになる面とが考えられる。多くの人はプラスになるものしか考えていないようである。しかし妙好人がモデルになると、法を聞く最大の邪魔者となるであろう。「あの人のようにならねば」となるからである。彼等に共通していえることは、法を聞くのに実に苦労していることだ。最後には捨てばちになる。浄土真宗の立場は本願成就を第一前提とする。
 救いの法が、私が求めるに先行して既に与えられているのである。それを逆に聞くことが聞き損ないといわれ、難信の法といわれるのである。この如実の聞と不如実の聞の相違をよく聞きわけることが最も重要である。

(P200~202)


真宗は全分他力の全くの易行でありながら、自力のはからいが難信の法にしてしまっているのだという事がよくわかります。
自分の「聞く」という造作に力を入れるのではなく、すでに完成され与えられている名号法のいわれを聞くのが真宗の聴聞という事ですね…。
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[ 2011/05/30 22:47 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

【ちょっと】おまけ【休憩】

http://www.nicovideo.jp/watch/sm7301276

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[ 2011/05/29 10:21 ] 未分類 | TB(0) | CM(2)

×「助けてください!」

引き続き、稲城和上の『蓮如上人のことば』から引用してみたいと思います。
今回は、御文章に頻出する「たのむ」についてです。ここは一番大事なポイントでありながら、一番誤解しやすいところですね…。



「 蓮師の「御文章」の醍醐味ともいうべきは、この「たすけたまへとたのむ」ということであろう。「たすけたまへ」も「たのむ」も、さらに「たすけたまへとたのむ」も等しく帰命の義である。四の六通では「即是帰命といふはわれらごとき無善造悪の凡夫のうへにおいて阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり」とあり、四の十四通では「帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり」とあり、五の十三通には「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこころなり」とある。帰命の蓮師の釈はすべて信順勅命とされ、帰投身命のごとき他流の釈はみられない。それゆえたのむということも信順無疑の相を示すものであり、「たすけたまへ」も鎮西義のごとく、請求を意味するものではない。逆の意である許諾の義である。
 また「たすけたまへとたのむ」の「と」は即を意味し、「たすけたまへ」と「たのむ」は同義を意味するものである。蓮師のこのような用法は、「御文章」の中に随所にみられるのである。たとえば五の九通にある「たとへば南無と帰命すれば」とある「と」も即を意味するのである。……請求の場合は衆生の側が先行するのである。また許諾の義となる場合は仏の救いの法が先行するのである。今許諾の義とされているのは救いの法が先行していることを前提としている。ここにこの私の側では、無疑信順ならざるを得ないことを表わすのである。
……自らの造作は微塵も介入する余地は存しない。その体は名号法そのものであるからである。それゆえ、この私の上では、名号六字の法に無疑信順のほかにないのである。随って信決定の上の念仏は往生の因でなく報恩の称名となるのである。
(P79~81)

 この「御文章」(※管理人注 五の十三通 無上甚深の章)では、次に六字釈を出し、特に帰命の釈に「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこころなり」とある。帰命の釈は『御文章』では多く「たのむ」といわれているが、「たすけたまへ」を帰命とされているところに注意すべきである。元来「たすけたまへ」は鎮西義の用語であり、……仏に向ってたすけて下さいという請求を意味するのである。蓮師は……請求の義は全くなく、すべて許諾の義(おまかせする)となっている。今も帰命は蓮師の上では信順の義とされ、おまかせする、おおせに順うことの義のほかにはない。
……たすけたまへが信順無疑の義とする場合は、たすけたもう法が先行しなければ成立しない。もし逆にこの私が先行すると請求の義となり、鎮西義と同じ意味となる。たすけたもう六字の法が、いつでもどこでもこの私の上に、自ら求めるに先行して既に与えられているのである。この法を聞信するから、おおせのままにという信順許諾の義となるのである。三業安心はこの文法的な解釈の無知からきているのである。
(P111~112)


「たすけたまへ」も「たのむ」も、私から如来への「助けてください!」という請求ではない。もっと言えば、
私の何らかの行為の結果として信心を獲るのではなく、あるいは何らかの行為を積み重ねた先にあるのが信心ではない、ということ。
すでに如来の側からこの私にただ今さし寄せられている
「そなたの往生はすべてこの弥陀が引き受けたぞ」という救いの法を、如来の仰せのままにいただくのが「たのむ」ということですね……。
以前の記事で紹介した、加茂和上はここを「全宗教は『めざめよ、つとめよ』ですが、真宗は『受けよ』です」と教えてくださっていました。

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[ 2011/05/29 09:50 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

「すくい」と「さとり」 (追記)

 最近、蓮如上人の御文章をあらためてよくよく味わってみたいな・・・という気持ちになりました。
御文章や蓮師に関しての本はいくつか出ていますが、個人的には稲城選恵和上の『蓮如上人のことば』(法蔵館)や、梯実円和上の『蓮如 その生涯の軌跡』(百華苑)が素晴らしいと思っています。
 そこで今後何回か『蓮如上人のことば』から、御文章についての解説を、いくつか取り上げて紹介したいと思います。
(太字の部分は私が強調のためボールド体としました)


 すくいとさとり - 二の十通(帖内)
 仏凡一体の章

  それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。さればその他力の信心のすがたを存知して、真実報土の往生をとげんとおもふについても、いかやうにこころをももち、またいかやうに機をももちて、かの極楽の往生をばとぐべきやらん。そのむねをくはしくしりはんべらず。ねんごろにをしへたまふべし。それを聴聞していよいよ堅固の信心をとらんとおもふなり。

 答へていはく、そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。

「……先ず、他力の信心の内容を明らかにされ、この信心の法徳をしての仏凡一体の内容を述べられている。……仏凡一体の仏とは仏心であり、如来のよきこころといわれ、凡とは凡心であり、煩悩濁悪の心である。一体とは機法一体の一体と異なり、転成一体といわれるのである。転ということはすでに『唯信鈔文意』の親鸞聖人の釈にあるごとく、「転ずといふはつみをけしうしなわずして、善になすなり」とあり、変の面を不変の面の存する変わり方をいうといわれる。たとえば船に石を載せて九州から大阪に運ぶがごとくである。石は陸上にある場合も船中にある場合も重量においては何らの変化もない。水上におくと沈む性格には全く異変はない。しかし、船上に載せられた石は軽石と同じように浮んでいるのである。
 船に載せられた石は、いかに沈まんとしても沈むことのでき得ないことになっている。この面からいえば変ということもできる。しかるに石そのものの重量が減じたということでもなく、水につけると沈む性格が変化したということではない。この面では不変ということができる。沈むもののまま船に支えられて沈まれないことになっているのは、石そのもののはたらきではなく、船そのもののはたらきによるのである。このような立場を法徳といわれ、ここにすくいとさとりとの立場が明らかにされるのである。……
 一遍上人の歌に「となふればわれもほとけもなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とある。この歌は浄土真宗との接点と考えられるであろう。すなわち「われもほとけもなかりけり」という、はからいや固執せるものの否定においては通ずるものも考えられる。しかし、われもほとけもない無分別の場にたつというのは、……煩悩、執着、我執をすべて否定した悟の世界をいわれるのである。それゆえ、一遍上人の世界には二種深信はあり得ない。あたかも道元禅師の悟の内容を、南無阿弥陀仏をもって語っているとも考えられる。……
 ……一遍上人や道元禅師の他力観と浄土真宗の他力の立場は異なるのである。道元禅師の他力の立場は、既述の船と石の譬えによると、石は水につけると直ちに軽石と変化して、しかもモーターがついて自ら九州から大阪まで行くことになるがごとくである。この場合は船を必要としない。万法(他力)と一つになる。この万法の他力に該当するものを一遍上人では南無阿弥陀仏としたのである。ここは自他の分別をはなれた全く一つの世界といわれる。それゆえ、道元禅師の立場は自力門といわれるのである。このようなさとりとすくいの立場を混同したのが、一遍上人の他力観であるといえよう。自らの分別やはからいを介入せしめない点においては浄土真宗の安心に共通する面も考えられるが、現身において万法と一つとなる世界であるからさとりの立場であり、此度入聖の立場といわれるのである。
 浄土教の立場の特色は、『教行信証』「化身土巻」にあるごとく、
  凡(おおよ)そ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名(なづ)く。……安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名く。
と、浄土と穢土の二元的立場を前提とする。ここにさとりの立場とすくいの立場の相違が考えられる。もし、一つという立場の実現の場を求むれば、証果の世界である。この証果は、肉体の存続する限りはかくされた世界といわねばならない。「信巻」末にも、
  念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
とあり、「真仏土巻」にも、
  明かに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。……安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。
とあり、惑染の衆生はこの肉体の存続する限り煩悩を断ずることは不可能である。石は陸上にあっても、船上にあっても何ら重量の変化はないのである。しかるに船上に載せられた石は、沈む性格のそのまま沈まれない身となっているのである。石は、自らいかに沈まんとしても、船に妨げられて沈まれない身となっている。このような二元的立場において、すくいは成立するのである。しかも船の行方が石の行方である。ここに念仏往生の立場と聖道仏教の立場の相違が考えられるのである。それゆえ、仏凡一体の凡といわれる凡夫の説明が『一念多念証文』には次のごとくある。   
  凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
とあり、船上の石の重量は陸地にあげるまでは何らの変化もあり得ない。しかも浮んでいることは船のはたらきそのものである。仏凡一体とは、このようにすくいとさとりの立場の混同を明らかにされたものといわれる。蓮師の時代には一益法門といわれ、信心をいただくとその場において仏になるという異義があったようである。
 仏に向かって礼拝せず、自分を拝むという不拝秘事もあったのである。
……仏心と凡心と一体という側面は法徳の上でいわれるので、この凡心そのままが仏であることではない。……ここに浄土教の特色があり、また万機普益の法ともいわれるのである。

(P33~40)


 船に載る前も載った後も、石が軽石に変化するわけでもなく、石の沈む性質は変わらぬまま、100%船の力によって浮かび、運ばれる。ここがポイントだと思います。信前信後問わず、私は自力無功であるという点は変わらないわけで、そうでないとするならば、それは真宗の信心ではないということになります。

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[ 2011/05/27 09:07 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

真宗の信心

「「信をとれ」とあるのを聞いて、如来のまちがいないおこころを私の胸に受けとらねばならないように思うから、いただけたとか、いただけないとかと自分の胸をさがすのである。これは大きなまちがいである。それならば本当のことはどうかといえば、如来のやるせないおこころにおさめとられた一つで、往生の用済みであるということを聞かせていただくばかりである。
…それゆえどこまでも私の救いは、聞いておいてよかったというようなものではない。いまのままで助けられてしまうのである。」

「自分の努力をつみかさねた結果が信心となるというのではなく、仰せが聞こえたのが信心です。これが仰せに随順したことですが、その随順するということは無疑ということで、計らいの無くなったことです。仏智満入すれば、仰せのままにおまかせし、如来に計らわれてゆくのです。だから仰せの聞こえたのが信心であり、お助けの得られたすがたが信心決定のすがたであります。他力の信心は、仏智満入によって、成就されたお助けの聞こえたことであります。」

『真宗の信心』 加茂仰順和上 著 探究社 刊 より


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[ 2011/05/19 22:57 ] 未分類 | TB(0) | CM(1)

正信偈 法話CD

GWも仕事仕事で、なかなか法話に行けない日々が続いてます(;^ω^)

ありがたいことに、CDなどの録音でご法話を自宅や出先で聴聞できる時代、文明の利器にお世話になってますf;^ω^)

最近のオススメは、すねいるさんから出ている、梯実円和上の「浄土真宗法話 聖典法話 正信偈講話 源空章八句」のCDです。
二枚あり、一枚は法話編、もう一枚は対談(質疑応答)になってます。

おなじみ正信偈の、
「凡夫人真宗教証興片州 選択本願弘悪世還来生死輪転家 決以疑 情為所止速入寂静無為楽 必以信心為能入」のお言葉についてのご法話。

単なる解説ではなく、真宗の信心とは、本願の仰せを疑い無く聞き受けている以外に無いということを、明らかにしてくださっています。
何度聞いてもありがたく、味わい深いですね。。。

南無阿弥陀仏


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[ 2011/05/16 01:35 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)


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