学仏大悲心

南無阿弥陀仏 唯信仏語 唯順祖教
学仏大悲心 TOP  >  2011年06月

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真宗の信心 善譲和上

つづいて、今度は空華学派の大成者、善譲和上の『本典敬信記』からうかがってみます。
--------------
本典敬信記 巻九 真宗全書三○P13~

信とは当巻の所顕なれば弁ぜずんばあるべからず。先ず総じて弁ぜば、凡そ仏経の中に信を釈するに通別等種々の解釈あり。先ず成実論倶舎論にては必定を信と名づけ善悪無記の三性に通ずと云う。このこころにては三種のことを作すもみな信よりすると云う意。この信のことは成実論七に出たり。披くべし。又毘曇有宗では、信はただ善の心所にして悪と無記との二には通ぜずとす。倶舎論四見るべし。大乗の中では勿論信は悪と無記とには通じずと云う。成唯識論六に云く、「云何なるをか信と為す、實と徳と能とに於いて深忍楽欲して心浄を性と為し不信を対治して善を楽うを業と為す」と。この文を述記六本下釈して云々、先ずこの信の釈。善の十一の心所の中、初の信心所を釈したる釈なり。因に弁ず。小乗の七十五法にていえば、大善地法十の第一なり。信と勤と行捨と慚と愧と無貪と無瞋と不害と軽安と不放逸と、これを小乗の十の心所法とす。大乗にては十一の善の心所となる。それは無貪無瞋の二善根に無痴の一を加えて三善根とするゆえ。総じて善の十一の心所となるなり。何れに
もせよ初の信の心所なり。唯識にていえば性と業用とを分かちて実徳能の三の依所に於いて、心を浄ならしむるが信の性なりと云う信の体なり。業用を云えば不信を対治して善を願うを業と為すと云う。不信とは疑惑のこと。疑惑止むときは信起こりて善法を願う。実と徳と能とは信所依の境界なり。実は実有。徳は有徳。能は有能。実有とは四諦二諦の諦理のことなり。四諦にて云えば出世の因果実相なり。真俗の二諦も同じ。諦は諦実にて動かぬ処これを実と云う。徳とは有徳にて仏法僧の三宝のことなり。三宝は真浄の徳を具うるゆえ徳と云う。能とは有能にて、若しは世間法若しは出世の法各々その用あり。之を有能と云う。この三の上に於いて深忍楽欲するを信と云う。この忍とは智慧のことにて五別境の中の勝解の心所なり。法に於いて涅槃智を生ずるを忍と云う。忍は忍受にて受け込むこと。楽欲の欲とは貪欲の欲とは異なり、五別境の中の第一の欲の心所なり。今の如く忍受すれば希望起こる。それを欲と云う。この勝解の心所と欲の心所とは信同時の因果なり。故に成唯識論云く。
忍謂勝解。此即信因。楽欲謂欲。即是信果と。勝解起これば信ずる心になり、信ずれば楽欲発る。故にこの信忍楽欲は信が同時の因果なり。爾し直ちに信に非ず。唯識論に自相此れ何ぞと問うて、豈適言わずや。心浄を性と為す等と。爾れば真の当然は、渾濁を離れて心の清浄に澄めることを云う。先法相の上にて解すれば、是の如く信と云うが心浄なるを性とすると云うが信の当然。前の深忍楽欲は信同時の因果と引き分ける。深忍は勝解の心所にて信が因、楽欲は欲の心所にして信の果と談ず。信同時の因果を分けるは今家の宗意に非ず。この心得なくして性相の決著を以って宗意をさばくと、ややもすれば安心異路に走る。是を以って浄信院などは、性相の心法のさばきを以って真宗の安心をさばくべからずと、明燈鈔に誡めてあり。慎むべし。今家の聖教を見るに信を心浄としたる所もあり。又深忍楽欲みな信の異名とせるもあり。偈に仏言広大勝解者とある。勝解は信の異名なり。又欲生などにて信の異名に用いたる所処々にあり。よりて信が同時の因果と判然に分かたず。故に通途の意を
得てその当たる所は取り、その合せざる所は差し置くべし。無理に合ずれば則宗意を害することあり。何れにせよ信と云うは、通途にては心の渾濁のとれたるを云うも、弘願別途にて云えば、名号を聞信して名号の法徳全く心中に入りて、心の渾濁のすむ由れあり。二河譬に能生清浄願往生心とのたまう。信罪福の濁れるこころより二河を恐れたるものか。遣喚をきき疑濁の全尽したるを能生清浄願往生心と云う。この邊にて言えば、唯識論に心浄を云うに一分合わせられる。又論註云く。「若人雖有無量生死之罪濁。聞彼阿弥陀仏至極無生清浄宝珠名号。投之濁心。念々之中。罪滅心浄。即得往生」と。この邊にて云えば心浄を性と為すというに一分当たる。畢竟じて云えば聞其名号信心歓喜にて、諸仏称讃の名号を聞きとどけたるが信心なり。故にその信と云うは諸仏所讃の名号を当てにし頼みにしたるなり。よりて御文章にはこの信を和らげて頼め頼めとあり。信に頼むの訓あることは万葉集などに出でたり。吉水和語燈録一の御言に信のことを頼むとあり。委しくは披見すべし。
ゆえに唯信鈔にも相承して、頼むとのたまう。頼むの言は信の字を能く顕わすの言なり。題号の信の一字に付いて弁ずること是の如し。
------
仏教における「信」の語義からはじまり、真宗の信心について懇ろに解説されています。ぶっちゃけ、僕などついていけない部分がありますが(;^_^A
いずれにせよ、勅命を疑い無く聞き受けた信相(捨自帰他、捨機託法)が真宗の信心であると、こちらも懇ろに説かれています。
何やら、文章の前後をバッサリ切って「空華学派の信理解と石泉学派の信理解は全く以て異なる」と主張したどっかの教授の論文を、ネット上の何処かで読んだ記憶がありますが、あれは夢だったのでしょうか…(°Д°)

 ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
スポンサーサイト
[ 2011/06/09 20:33 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

真宗の信心 僧叡和上

真宗の信心=二種深信=捨自帰他=信機信法
つまり、自力の計らいを離れて名号願力をたのむ事であると、以前に書きましたが、ここを石泉僧叡和上の『教行信証随聞記』から、もう少しうかがってみます。
-----
 巻二十九 真宗全書二八P41~

聞は信楽なり、深信なり。此れに信機信法の二つを分かつ。其の信機信法の機法の意を、此の生起本末が意会するなり。生起を聞きて信機する。法蔵の見立てが、「現是罪悪生死 止 出離之縁」とは、余人の云うことで無し、法蔵の目に留まること、其れが得心せられたが信機なり。信法は本末が了ぜられる。「彼阿弥陀仏 止 定得往生」。他力摂取を以って助かることを聞くが信法にして、本末を聞くことなり。生起本末を聞くは、機法二実を聞くなり。信をたのむと訓ずること、信法へは契うが、信機へは契わぬと云う者もあるが、機法もろとも仏願の所詮なることを知らぬ故なり。無有出離も、定得往生も、皆本願の義れなり。其れを唯信仏語と真受けにする、故に信機なり信法なり。何にもつかえたこと無し。斯かる機法の義を聞くが、仏願の義を聞くなり。其れで心の内は澄み渡るなり。未聞の前は、機も法も濁り果てて、自身をも見限り詰めることも出来ずにありた者が、仏願の機法を聞きて、心が澄んで来る。此れ信心の模様なり。心の澄浄なるが信の自性なり。其の業用に疑惑頓に尽
きる。其の処を無有疑心を云うた者なり。聞の字釈し畢んぬ。
 聞名のことを次に出すなり。信心と云えど聞名の外無し。「一流安心の 止 いわれなりとしるべし」。常途と事異なりて、本願成就の南無阿弥陀仏が信心となる。

 ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
[ 2011/06/09 20:11 ] 未分類 | TB(0) | CM(3)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。