学仏大悲心

南無阿弥陀仏 唯信仏語 唯順祖教
学仏大悲心 TOP  >  スポンサー広告 >  未分類 >  石泉僧叡和上『柴門玄話』より

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

石泉僧叡和上『柴門玄話』より

「願力とは名号のことなり」

「信というはかの願力の回入して衆生の内心に在るものなり。願力こころに受けられて自力に離れたるを信と云う。これすなわち二種深信のすがたにて、信機の故に自力を離れ、信法の故に願力を受く。三信を釈する中に広く示すが如し。かの釈は二種深信を宗骨とす。深信は信楽なり、信楽もとより機法の二義を具す。信楽分かれて初後の二心となる、信楽本具の故に至心も欲生もこの二義を出でず、一より二を開し、二を合に即一信楽心、自力浄尽しただ願力これ存す。これを往相回向の大信とす」

「それ信心というは心中に快く名号を受けられたるなり。名号の外はすべて雑行雑修自力、その雑行雑修自力の心を捨離して、以斯義故必得往生とある名号の信知せられたるを快く受けたりとす。されば信心というはただこれ名号を内心に獲得したるなり。中興上人近く宝章にのたまわく、信心というはいかようなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり、この南無阿弥陀仏のこころをくわしく知りたるがすなわち他力信心のすがたなり」

○信心の体は南無阿弥陀仏以外にはない
○捨自帰他=二種深信=信機信法 自力を離れて名号願力をたのむばかり

やっぱりここですね……。

南無阿弥陀仏

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
スポンサーサイト
[ 2011/03/05 19:11 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。