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「すくい」と「さとり」 (追記)

 最近、蓮如上人の御文章をあらためてよくよく味わってみたいな・・・という気持ちになりました。
御文章や蓮師に関しての本はいくつか出ていますが、個人的には稲城選恵和上の『蓮如上人のことば』(法蔵館)や、梯実円和上の『蓮如 その生涯の軌跡』(百華苑)が素晴らしいと思っています。
 そこで今後何回か『蓮如上人のことば』から、御文章についての解説を、いくつか取り上げて紹介したいと思います。
(太字の部分は私が強調のためボールド体としました)


 すくいとさとり - 二の十通(帖内)
 仏凡一体の章

  それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。さればその他力の信心のすがたを存知して、真実報土の往生をとげんとおもふについても、いかやうにこころをももち、またいかやうに機をももちて、かの極楽の往生をばとぐべきやらん。そのむねをくはしくしりはんべらず。ねんごろにをしへたまふべし。それを聴聞していよいよ堅固の信心をとらんとおもふなり。

 答へていはく、そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。

「……先ず、他力の信心の内容を明らかにされ、この信心の法徳をしての仏凡一体の内容を述べられている。……仏凡一体の仏とは仏心であり、如来のよきこころといわれ、凡とは凡心であり、煩悩濁悪の心である。一体とは機法一体の一体と異なり、転成一体といわれるのである。転ということはすでに『唯信鈔文意』の親鸞聖人の釈にあるごとく、「転ずといふはつみをけしうしなわずして、善になすなり」とあり、変の面を不変の面の存する変わり方をいうといわれる。たとえば船に石を載せて九州から大阪に運ぶがごとくである。石は陸上にある場合も船中にある場合も重量においては何らの変化もない。水上におくと沈む性格には全く異変はない。しかし、船上に載せられた石は軽石と同じように浮んでいるのである。
 船に載せられた石は、いかに沈まんとしても沈むことのでき得ないことになっている。この面からいえば変ということもできる。しかるに石そのものの重量が減じたということでもなく、水につけると沈む性格が変化したということではない。この面では不変ということができる。沈むもののまま船に支えられて沈まれないことになっているのは、石そのもののはたらきではなく、船そのもののはたらきによるのである。このような立場を法徳といわれ、ここにすくいとさとりとの立場が明らかにされるのである。……
 一遍上人の歌に「となふればわれもほとけもなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とある。この歌は浄土真宗との接点と考えられるであろう。すなわち「われもほとけもなかりけり」という、はからいや固執せるものの否定においては通ずるものも考えられる。しかし、われもほとけもない無分別の場にたつというのは、……煩悩、執着、我執をすべて否定した悟の世界をいわれるのである。それゆえ、一遍上人の世界には二種深信はあり得ない。あたかも道元禅師の悟の内容を、南無阿弥陀仏をもって語っているとも考えられる。……
 ……一遍上人や道元禅師の他力観と浄土真宗の他力の立場は異なるのである。道元禅師の他力の立場は、既述の船と石の譬えによると、石は水につけると直ちに軽石と変化して、しかもモーターがついて自ら九州から大阪まで行くことになるがごとくである。この場合は船を必要としない。万法(他力)と一つになる。この万法の他力に該当するものを一遍上人では南無阿弥陀仏としたのである。ここは自他の分別をはなれた全く一つの世界といわれる。それゆえ、道元禅師の立場は自力門といわれるのである。このようなさとりとすくいの立場を混同したのが、一遍上人の他力観であるといえよう。自らの分別やはからいを介入せしめない点においては浄土真宗の安心に共通する面も考えられるが、現身において万法と一つとなる世界であるからさとりの立場であり、此度入聖の立場といわれるのである。
 浄土教の立場の特色は、『教行信証』「化身土巻」にあるごとく、
  凡(おおよ)そ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名(なづ)く。……安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名く。
と、浄土と穢土の二元的立場を前提とする。ここにさとりの立場とすくいの立場の相違が考えられる。もし、一つという立場の実現の場を求むれば、証果の世界である。この証果は、肉体の存続する限りはかくされた世界といわねばならない。「信巻」末にも、
  念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
とあり、「真仏土巻」にも、
  明かに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。……安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。
とあり、惑染の衆生はこの肉体の存続する限り煩悩を断ずることは不可能である。石は陸上にあっても、船上にあっても何ら重量の変化はないのである。しかるに船上に載せられた石は、沈む性格のそのまま沈まれない身となっているのである。石は、自らいかに沈まんとしても、船に妨げられて沈まれない身となっている。このような二元的立場において、すくいは成立するのである。しかも船の行方が石の行方である。ここに念仏往生の立場と聖道仏教の立場の相違が考えられるのである。それゆえ、仏凡一体の凡といわれる凡夫の説明が『一念多念証文』には次のごとくある。   
  凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
とあり、船上の石の重量は陸地にあげるまでは何らの変化もあり得ない。しかも浮んでいることは船のはたらきそのものである。仏凡一体とは、このようにすくいとさとりの立場の混同を明らかにされたものといわれる。蓮師の時代には一益法門といわれ、信心をいただくとその場において仏になるという異義があったようである。
 仏に向かって礼拝せず、自分を拝むという不拝秘事もあったのである。
……仏心と凡心と一体という側面は法徳の上でいわれるので、この凡心そのままが仏であることではない。……ここに浄土教の特色があり、また万機普益の法ともいわれるのである。

(P33~40)


 船に載る前も載った後も、石が軽石に変化するわけでもなく、石の沈む性質は変わらぬまま、100%船の力によって浮かび、運ばれる。ここがポイントだと思います。信前信後問わず、私は自力無功であるという点は変わらないわけで、そうでないとするならば、それは真宗の信心ではないということになります。

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[ 2011/05/27 09:07 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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