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×「助けてください!」

引き続き、稲城和上の『蓮如上人のことば』から引用してみたいと思います。
今回は、御文章に頻出する「たのむ」についてです。ここは一番大事なポイントでありながら、一番誤解しやすいところですね…。



「 蓮師の「御文章」の醍醐味ともいうべきは、この「たすけたまへとたのむ」ということであろう。「たすけたまへ」も「たのむ」も、さらに「たすけたまへとたのむ」も等しく帰命の義である。四の六通では「即是帰命といふはわれらごとき無善造悪の凡夫のうへにおいて阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり」とあり、四の十四通では「帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり」とあり、五の十三通には「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこころなり」とある。帰命の蓮師の釈はすべて信順勅命とされ、帰投身命のごとき他流の釈はみられない。それゆえたのむということも信順無疑の相を示すものであり、「たすけたまへ」も鎮西義のごとく、請求を意味するものではない。逆の意である許諾の義である。
 また「たすけたまへとたのむ」の「と」は即を意味し、「たすけたまへ」と「たのむ」は同義を意味するものである。蓮師のこのような用法は、「御文章」の中に随所にみられるのである。たとえば五の九通にある「たとへば南無と帰命すれば」とある「と」も即を意味するのである。……請求の場合は衆生の側が先行するのである。また許諾の義となる場合は仏の救いの法が先行するのである。今許諾の義とされているのは救いの法が先行していることを前提としている。ここにこの私の側では、無疑信順ならざるを得ないことを表わすのである。
……自らの造作は微塵も介入する余地は存しない。その体は名号法そのものであるからである。それゆえ、この私の上では、名号六字の法に無疑信順のほかにないのである。随って信決定の上の念仏は往生の因でなく報恩の称名となるのである。
(P79~81)

 この「御文章」(※管理人注 五の十三通 無上甚深の章)では、次に六字釈を出し、特に帰命の釈に「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこころなり」とある。帰命の釈は『御文章』では多く「たのむ」といわれているが、「たすけたまへ」を帰命とされているところに注意すべきである。元来「たすけたまへ」は鎮西義の用語であり、……仏に向ってたすけて下さいという請求を意味するのである。蓮師は……請求の義は全くなく、すべて許諾の義(おまかせする)となっている。今も帰命は蓮師の上では信順の義とされ、おまかせする、おおせに順うことの義のほかにはない。
……たすけたまへが信順無疑の義とする場合は、たすけたもう法が先行しなければ成立しない。もし逆にこの私が先行すると請求の義となり、鎮西義と同じ意味となる。たすけたもう六字の法が、いつでもどこでもこの私の上に、自ら求めるに先行して既に与えられているのである。この法を聞信するから、おおせのままにという信順許諾の義となるのである。三業安心はこの文法的な解釈の無知からきているのである。
(P111~112)


「たすけたまへ」も「たのむ」も、私から如来への「助けてください!」という請求ではない。もっと言えば、
私の何らかの行為の結果として信心を獲るのではなく、あるいは何らかの行為を積み重ねた先にあるのが信心ではない、ということ。
すでに如来の側からこの私にただ今さし寄せられている
「そなたの往生はすべてこの弥陀が引き受けたぞ」という救いの法を、如来の仰せのままにいただくのが「たのむ」ということですね……。
以前の記事で紹介した、加茂和上はここを「全宗教は『めざめよ、つとめよ』ですが、真宗は『受けよ』です」と教えてくださっていました。

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[ 2011/05/29 09:50 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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