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真宗の信心 僧叡和上

真宗の信心=二種深信=捨自帰他=信機信法
つまり、自力の計らいを離れて名号願力をたのむ事であると、以前に書きましたが、ここを石泉僧叡和上の『教行信証随聞記』から、もう少しうかがってみます。
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 巻二十九 真宗全書二八P41~

聞は信楽なり、深信なり。此れに信機信法の二つを分かつ。其の信機信法の機法の意を、此の生起本末が意会するなり。生起を聞きて信機する。法蔵の見立てが、「現是罪悪生死 止 出離之縁」とは、余人の云うことで無し、法蔵の目に留まること、其れが得心せられたが信機なり。信法は本末が了ぜられる。「彼阿弥陀仏 止 定得往生」。他力摂取を以って助かることを聞くが信法にして、本末を聞くことなり。生起本末を聞くは、機法二実を聞くなり。信をたのむと訓ずること、信法へは契うが、信機へは契わぬと云う者もあるが、機法もろとも仏願の所詮なることを知らぬ故なり。無有出離も、定得往生も、皆本願の義れなり。其れを唯信仏語と真受けにする、故に信機なり信法なり。何にもつかえたこと無し。斯かる機法の義を聞くが、仏願の義を聞くなり。其れで心の内は澄み渡るなり。未聞の前は、機も法も濁り果てて、自身をも見限り詰めることも出来ずにありた者が、仏願の機法を聞きて、心が澄んで来る。此れ信心の模様なり。心の澄浄なるが信の自性なり。其の業用に疑惑頓に尽
きる。其の処を無有疑心を云うた者なり。聞の字釈し畢んぬ。
 聞名のことを次に出すなり。信心と云えど聞名の外無し。「一流安心の 止 いわれなりとしるべし」。常途と事異なりて、本願成就の南無阿弥陀仏が信心となる。

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[ 2011/06/09 20:11 ] 未分類 | TB(0) | CM(3)
石泉学派-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B3%89%E5%AD%A6%E6%B4%BE
では

未聞の前は、機も法も濁り果てて、自身をも見限り詰めることも出来ずにありた者が、仏願の機法を聞きて、心が澄んで来る。此れ信心の模様なり。心の澄浄なるが信の自性なり。

の部分だけを持ってきて、

「信」を「心が清浄になること」と定義し

とありますが、酷い断章ですね。某真宗学者の影響でしょうが・・・
[ 2011/06/09 21:17 ] [ 編集 ]
コメントありがとうございます。

全くですね。
そのような曖昧かつ歪んだ解説では、読者に「さとり」と「信心」を混同せしめるものでしかないですよね。
こんな明かな誤謬がまかり通っているとは、恐ろしい限りです。
石泉僧叡和上は、同じく『随聞記』の他の箇所で「(疑い晴れて)心がサッパリする」という平易な表現をされていますが、某教授とそのフォロワーは、このところをどう受け取っているんでしょうかね…(;°Д°)
今日、伝統教学でよく言われる「好もしく疑い晴れた心」以外の何物でもないじゃないかと思います。

[ 2011/06/10 13:36 ] [ 編集 ]
体・相・用などいう名目は、アビダルマ仏教において使用されていた用語のようであり(自信はありません)、これを大乗仏教も継承していますが、大乗仏教である真宗においても信を「心を澄浄にするもの」と定義することはそんなに間違っていないと私は思います。信楽=無疑心は、「心を澄浄にするもの」から生じた相であり、「心を澄浄するもの」の力用によって信楽が生じたという理解は十分に成立すると思います。この「心を澄浄にするもの」とは、「弥陀の悲智円満の仏心」であり、弥陀の悲智円満の仏心が信の「ものがら」だから、衆生のうえに無疑心が発起し、大涅槃の因となる、というべきだと思います。石泉は信を「体」=ものがらである仏心から定義し、空華は信を「相」から定義したという違いに過ぎず、実質的にみれば両者はあまり変わらないのではないでしょうか。
[ 2012/06/30 11:32 ] [ 編集 ]
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